まっさらのドイツの有名な乗用車を
10分間運転させていただきました。
5分も走ればその車のシートの素性はわかります。
ただし所有して乗り続けなくてはいけない事情に
なれば気になるところを意識の消しゴムで消しつつ
可処分所得のなかでクッションを買うか、座布団を
しいて見ようか、はたまた粋がって何もしないで
耐え抜いて。人知れずナンパオを呑んで
バンテリンでも塗っておきましょうか、と
なるのではないでしょうか。
で
ここで書きたいことはなにかというと
体は痛て~だろうこの椅子っはって訴えても
人間のできかたっていうのは
どうも意識の上で痛さつらさを押しころして、脳内の
どこかに仕舞うことができるカナリ高度に
できているんじゃないかと考えたわけです。
けれど、その追いやったものっていうのは、いつかの
機会に牙をむくのではないかなって最近は
考えるようになりました。
そのことを考えさせてくれたのは私が扱い始めた
心臓の鼓動のような動きをデーターに変換して
運転手に警告をする装置のスリープバスターという
入眠予知装置の試体験を行うと、室内で目を瞑っていても
警告を出すわけではありませんが
同じ姿勢で座り続けると眠気は感じていないのに、10分後に
自分に起きそうな意識のボケを警告してきます。
ということは生体と意識の間にはそれぞれの持つ
役割についての遠慮みたいなものが存在して
活動をするための都合を最優先させるような
都合の神様見たいな存在があるのかもしれませんね。
(都合の神様)Copyright © 2012 せいじ All Rights Reserved.
肝心の車の椅子についての考察は急遽この投稿を
その1として次号に続くとさせて頂きます。
悪くない程度の椅子が横行している中で
もっとよい椅子とはナニカを考える会、会長の
JETSETのさざきでございました。